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 興津地区は、清見寺、さった峠をはじめ、水口屋、西園寺公望公などの別荘が数多く建てられるなど、歴史、文化的財産に恵まれた地区である。これらの地域財産に加え、まちづくり推進委員会において薄寒桜を、清見潟公園中心に2000本植樹するなど、中期的視野でまちづくりを推進してきた。
 今回坐漁荘が整備される事を受け、改めて興津と言う地区を見直し、興津のまちを発展させる為にはどうすればよいのか再考するとき、”人の集えるまちづくり”をテーマとし、その手法として「観光」を主眼に、人・もの・情報の集まるまちづくりを目指す事とした。
 春夏秋冬を感じさせる自然、富士山を臨む景観の素晴らしさ、東海道興津宿を舞台に展開された歴史と文化を地域として再認識し、これらを観光資源として生かしていくため、下記のとおり提言するものである。
 この提言を、新市の総合計画や産業振興プランに位置付け、行政と地域が連帯を密に取り組む事ができるよう、観光振興の指針として活用されることを強く望むものである。

 興津地区は、古代から交通の要衝として栄えてきた。680年頃には、清見寺下に清見関(きよみがせき)が設けられ、鎌倉時代になると、興津氏が宿の長者として一帯を支配した。その後、南北朝時代にさった山合戦、戦国時代に興津河原合戦の戦場となった。
 江戸時代になると、川越やさった峠の難所を控え、身延山への街道も分岐している事から、東海道十七番目の宿場として繁栄した。
 東に隣接する由比町との境となるさった峠は、当初は海へ突き出した断崖下の細道を、打ち寄せる波を避けるように往来する、俗に言う「親知らず子知らず」の難所であったが、中道、上道が整備された後は、富士山や三保の松原を臨むことの出来る絶景の峠道となった。
 明治以降には、風光明媚な土地柄と温暖な気候が好まれ、清見潟に面した海岸地域には別荘が立ち並び、西園寺公望や伊藤博文など明治政府の重鎮たちが避寒に訪れた。なかでも、元老西園寺公望はこの地を大層気入られ、晩年はほとんど別荘「坐漁荘」で過ごし、内閣総理大臣の交代期には、国の重鎮が再三訪れ、興津は政治の裏舞台といわれた。
 その後も、興津地区は、「庵原郡興津町」として発展を続けてきたが、更なる飛躍を期待し昭和36年に旧清水市と合併した。その後の昭和40年には地域人口15.418人と言う過去最高の数字を記録したが、そのわずか10年後の昭和50年に14.266人という最低記録し、平成2年には15.093人まで延びたものの、その後は微減傾向である。
 近年に入り、国道1号線バイパスや港湾道路、興津埠頭の整備により、かつての白浜などの風光明媚な姿は消え、別荘等も撤退、昔ながらの誘客は不可能となってきた。しかし、国際貿易港を抱えた海の玄関口として、最近ではFAZや新興津国際海上コンテナターミナル等が整備され、一代貿易拠点というかつての興津とは違った一面を整え始めている。また、併せて、国道1号線の道路整備も完成し、コミュニティーセンターや緑地公園の整備も進み、人工海浜の計画も進んでいる。
 これらによって、新たな「興津」の姿が具現化されつつある。
以上のことを受けて、興津地区では「変わるぞ!興津」を銘打って、様々な地域発展の為の事業を考察、発展してきている。







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